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ゾクゾク感

 

 

何かあったら押して下さいねー、と言われつつも、別段緊急でもないのにナースコール押したらどうなっちゃうんだろうという何となくスリル感。寒気じゃなくってゾクゾクするのは、「ボタンがあります。押しますか?」とドラクエで聞かれたような、心理的そわそわ感。

 

| RY◎MA STYLE | 08:21 | - | RY◎MA |

風邪

 

採血された後、そのままその針で点滴を入れる、という、出したり入れたりが不思議で、いいんでしたっけ?と看護士さんとおしゃべり。風邪のせいか点滴のお陰かなんか気持ちいい

 

| RY◎MA STYLE | 00:37 | - | RY◎MA |

点滴

 

年明けに年賀状のやりとりをしなくても、生きているかどうかくらいの確認はSNS等ネットでできる昨今。にしても点滴とは…休みになると風邪をひくのは相変わらず笑

| RY◎MA STYLE | 00:57 | - | RY◎MA |

as the year draws to a close

 

上は「デルタ航空」のホリデー画像。ターンテーブルの仕様がかわいかったので…

 

さて、年の瀬も押し迫って参りました。皆さまにとって来年も素晴らしい一年でありますよう祈念いたします。

 

よいお年をお迎えください。

 

年の瀬に読みたい『オチビサン』7選 ⊂(^(工)^)⊃

 

| RY◎MA STYLE | 18:07 | - | RY◎MA |

The Divided States of America.

 

 

史上初の「国民国家」が誕生したフランス革命後、

 

 

いっときトランプの

 

 

「KING(キング)」・「QUEEN(クイーン)」・「JACK(ジャック)」も、

 

 

「LIBERTE(自由)」・「EGALITE(平等)」・「FRATERNITE(友愛)」

 

 

 改められたという真実

 

| RY◎MA STYLE | 01:16 | - | RY◎MA |

ぐでたまカード


泣いているKIDSがいたら差し出そうと

「ジャケ買い」の勢いで作ってみたものの…

これをお会計で出してもなかなか

本物のカードとして精算してくれないことが判明…

キャッシャーのお姉さんたちに

まじまじと眺められること、しばし笑





特典シールでは

背泳ぎ、と、温泉行きたい、が好き

温玉になっているゆるさ笑

券面も絵柄が選べたら

人の気を一気に変えてあげられるのにな
 
| RY◎MA STYLE | 11:06 | - | RY◎MA |

矜持

春と言えばアンデルセンのえんどうまめの話。子供にも馴染みやすく、でもさり気なく見守る眼差し、手を引く温かさがそこはかとなく漂う童話や昔話が 好き





アンデルセン童話『五つぶのえんどうまめ』


えんどうまめが、五つぶ、さやの中にならんでいました。みんなきいろの、大きなまめです。
「ぼくたち、もうすぐ、外へでられるね」
まめたちがはなしあっているとき、ゆさゆさ、さやがゆれました。人間の男の子が、さやをもぎとったのです。
「まめでっぽうの玉にしよう」
男の子は、さやをわりました。
五つぶのまめは、あかるい外へこぼれでました。男の子の、手のひらのうえでした。
一つのまめが、まめでっぽうにつめこまれました。
「そら、ぼくがいちばんだぞ。ひろいせかいへとんでいくんだ」
そういって、ぽーんと、どこかへとんでいきました。


二ばんめのまめは、
「よし、ぼくはお日さまのところまで行くんだ」
三ばんめのまめは、
「ぼくが、いちばんとおくへ行くんだよ、ぽーん」
四ばんめのまめは、
「えへん、ぼくこそ、いちばんえらくなるんだぞ、ぽーん」
いばってとんでいきました。
おしまいの五つめのまめは、
「どんなところへでもいい。かみさまにおまかせしよう」
そういってとんでいったのち、小さな家のまどの下の、いたのわれめにたまった土ぼこりの中に、すっぽりと、はまりこみました。


まどの中のへやには、びょうきの女の子とおかあさんが、すんでいました。
女の子は、びょうきが、なかなかなおらないので、
「わたし、もうだめかしら」
と、つぶやきます。
そのそばで、おかあさんが、
「もっと、元気をだすのよ」
と、はげましていました。


春になりました。ある朝、女の子は、まどの下を見て、びっくりしました。
「あら、あそこに青いものがあるわ」
おかあさんは、ガラス戸をあけました。
「まあ、えんどうまめよ。どうして、あんなところにはえたのかしら」
おかあさんは、ベッドを、まどのそばへうつしてやりました。その日から、女の子は、まいにち青いはっぱをながめました。おかあさんは、ぼうを、まめのそばにたてて、風がふいても、たおれないようにしてやりました。
まめは、少しずつのびていきます。
「おかあさん、あのまめがのびていくので、わたしも元気がでてくるわ」


まもなく、きれいな赤い花がさきました。
そのころは、女の子も、ベッドの上におきあがったり、へやの中を歩いたりできるようになりました。
おかあさんは、にっこりして、
「あのまめの花は、きっと、かみさまがわたしたちによこしてくださったのだね」
と、いいました。
ほかの四つのまめのうち、一つぶはみぞにおちて、くさってしまいました。
ほかの三つぶは、やねの上で、はとにくわれてしまったそうです。





とある記事によると
伝統的な職人さんの体験実習をした学校に
「将来そんな職業に就きたいと言い出したら
どうしてくれる?余計な教育はするな!」と
モンスターペアレンツが怒鳴りこんだという。
そんな昨今、こんな話は受け入れがたい?


天下の智者高官も
菩提心がなければみな魔道に落ちる
と言いまして。
人を助くる業をのみ菩提心と言い。


H. C. Andersenの話の趣旨は
所詮、人間の浅知恵。
各時代時代の世渡りの青写真などは
愚かな計りごとかも。
計のなきを最善の計とす。
すべてはお任せ。
というのが、話の種子(豆だけに)。


禅にある、『無が無で無に無を無』。
無心の境地。


徒然なるままの
このblogの価値ってそこらへんに。
貴種流離譚みたいなものだといいのですが。
 
| RY◎MA STYLE | 07:08 | - | RY◎MA |

御中日

昨日は春分の日、つまりお彼岸の中日で
日は真東から昇り、真西に沈む。

真ん中、というのは非常に稀で貴重、
しかも真っ直ぐなことなので
日本人は古来、この日に祖先に感謝を伝えた。

「中道」を尊び、また中庸を好むいわれ。
感謝して感謝され。





逆に子孫のことを想う時、司馬温公(1019〜1086)の家訓には


積金遺子孫、々々未必能守。
積書遺子孫、々々未必能讀。
不如積陰徳於冥々中、以遺子孫久長計。

(口語)
金を積んで子孫に遺すも、
子孫、未だ必ずしも能く守らず。
書を積んで子孫に遺すも、
子孫、未だ必ずしも能く読まず。
如(し)かじ、陰徳を冥々の中に積んで、
以て子孫長久の計を遺さんには。


「子孫に書物や財産を残すよりも、陰徳を積みなさい。
それが子孫繁昌の秘訣であるぞ」との言葉。
寿老人や恵比寿の二福神も嬉しそうに眺めたという賛は、
人間はその中身と実践によって福寿に恵まれるという。
 
| RY◎MA STYLE | 11:41 | - | RY◎MA |

to devour a book

東日本大震災五年目の節目の時期に、

トレヴェニアン

『パールストリートのクレイジー女たち』

から、ちょっと備忘録をいくつか。

『夜の物思い』という章があって、書き出しは…


>“無限”は、僕を大いに悩ませた。“時”も、“神”も。それらの言葉を定義することはできるが、ほんとうの意味で理解し、感じ取ることはできなかった。“家”とか“憎悪”とか“赤”といった言葉のようには。“無限には始まりも終りもない”一つずつの単語を知っているという意味では理解できたが、これはつかみどころのない概念の一つであり、つかんでもつかみきれず、しっかりつかもうとすればするほど、素早く飛び去ってしまう……油を塗ったおはじきを、箸でつまみ上げようとするようなものだ。
夜遅く、僕はよく、そういう奇妙な抽象概念と格闘し、最後にはきまって思考がもつれて目眩がし、落着くために枕を抱きしめなくてはならなくなった。
“時”をたとえば例にとろう。僕は“いま”を含む瞬間が幾つも、つねに流れ込んで蓄積されていくにもかかわらず、過去は決して長くならないし、時間のなかから“いま”が何度過ぎ去っても、未来は短くならない。なぜなら過去も未来も無限だからで、誰も、無限をちょっと増やすとか、減らすとかはイメージできないからだ。“いま”というはかない一瞬もまた、つかまえにくい。“い”を発言するときには“ま”はまだ未来で、“ま”を発言したときには“い”はすでに過去で、二度と戻ってこないのだから。
最終的に、僕は“無限”と“時”と“神”を、自分の理解のおよばない物事のリスト――項目が増え続けるリストだ――に加えることで、この疑問と混乱から解放された。こう仮定することで気持ちに収まりをつけたのだ。いつか理解できる日がくるかもしれないし、もしこなければ、こう考えればいい、世の中には三種類の事柄があり、それは僕に理解ができることと、僕がいつか理解するだろうことと、決して完全には僕が理解しないことなのだ、と。

>僕が生れたのは一九三〇年で、フーヴァーが大統領の時代で、まだ禁酒法が効力を持っていた。だから、これまでのところ僕の人世はすべて一九三十何年かだった。しかしある午後、学校から帰る途中で、1940という年号のついた日づけを、フォード自動車の次のモデルの広告掲示板で目にした。僕は立ち止まり、いやな予感でいっぱいになりながら、その数字をにらんだ。その40は不吉に見えた…(後略)





連綿と続いてきた天災にしろ、洋の東西を問わず繰り返される戦争にしろ、万人が逃れられない“死”とそれに属する人間の“生”にしろ、そこにまつわるものはなかなか人知の及ばない範囲ではある。でも、ひとつだけ確かに言えることは、人間の一生には波があって、幸せなとき楽しいときは誰も歴史や我が身をかえりみないけれど、つまづいて初めて自分を振り返る、という意義。

自分を見詰め直して、しかもそれを何度か繰り返していくと、乗り越える中でそこにある意思のようなものを感じるときがあるかもしれない。たぶんそこらへんが陰の効用、偶有性における神秘なのかと…
| RY◎MA STYLE | 06:35 | - | RY◎MA |

OMNIA MEA MECUM PORTO


Happy New Year 2016


タイトルは『知恵こそ最大の富』という意味のラテン語ですが、
安岡正篤さんの「三つの心がけ」を新春のご挨拶に。
(以下、安岡正篤著『運命を創る』より)





>無数に古人の教えもありますが、私はこういう三つのことを心がけております。
第一、心中常に喜神を含むこと。
神とは深く根本的に指して言った心のことで、どんなに苦しいことに遭っても、心のどこか奥の方に喜びを持つということです。実例で言えば、人から謗られる、あられもないことを言われると、怒るのが人情であるが、たとえ怒っても、その心のどこか奥に、「いや、こういうことも実は自分を反省し磨練する所縁になる、そこで自分(という人間)ができていくのだ、結構、結構」と思うのです。
人の毀誉褒貶なども、虚心坦懐に接すれば、案外面白いことで、これ喜神です。今、日本は非常な苦痛を嘗めている。今後ますます甚だしくなるかもしれぬ。これを欝々すれば、人の健康にも大害があるが、これに反して、いや、どんなに苦しくなってもかまわぬ。今までの日本は少し甘すぎたから、少しはひどい目に遭って、たとえば東京や大阪が焼き払われたが、なあに敵国人が手弁当でやって来て、始末の悪くなった大都市の整理をしてくれたのだというふうに肚(はら)を決める、これも一つの喜神であります。





>その次は、心中絶えず感謝の念を含むこと。
有難いという気持ちを絶えず持っておること、一椀の飯を食っても有難い、無事に年を過ごしても有難い、何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つことであります。





>第三に、常に陰徳を志すこと。
絶えず人知れぬ善いことをする、どんな小さいことでもよろしい、大小にかかわらず、機会があったら、人知れず善いことをしていこうと志すことであります。人間には、どうも報償的な気持ち、どんな悪党でも悪いことをしたならば、何かそれを埋め合わせる善いことがしたくなるものです。でなければ良心が納まらぬ。そこで泥棒をすると、貧民を賑わしてみたり、兄弟分に分配したり、不義の財、不浄の銭を掴んだ者ほど何か人目に立つことに寄付をします。国防献金をやって、まあまあこれでよいというような――これを「姦富」と申します。そういう者も少なくありません。そうではなく、何か人知れず良心が満足するようなことを、大なり小なりやると、常に喜神を含むことができます。道教などはこれをやかましく教えています。





新しい予感に満ちた一年、皆さま
ハッピースタートになりますよう☆彡

 
| RY◎MA STYLE | 07:41 | - | RY◎MA |